2016年12月29日木曜日

回帰

若者よ志を持て、
・・・・この年寄のように。

つとに有名な北大の前身札幌農学校の教頭、クラーク博士の言葉。
彼が日本で教鞭をとったのは、8ケ月。
明治9年~10年の事。

が、彼より有名ではなく、しかし、より強く近代日本の創造に寄与した人物がいる。
工業立国の父ヘンリー・ダイヤー。

明治6年 1873年25歳の時に東京大学の
前身工部大学校の初代都検:教頭に就任。
実質的には、校長の役割を担っていた。
帰国する明治15年までの9年間の長きに亘る。

工学科の首席で卒業してわざわざ日本?
ヘンリーは、イギリスのグラスゴー大学を首席で卒業している。
グラスゴー大学は、1451年創立の英語圏としては、最古の大学。
グラスゴー大学の研究者から7名のノーベル賞受賞者を出している。
このことからだけでも大学の優秀さがうかがえる。






高知県
八畝・怒田の棚田



画像:四国大陸




土木工学科第一期首席卒業。
いくら首席とはいえイギリスには、優秀な科学者がいる。

若い学者を他国に貸し出しても打撃はない。

当時の明治政府は、イギリスから莫大な輸入をしている。
イギリスは、不平等条約により多大な利益を得ていた。
鉄道、電信、海軍編成、製鉄などなど。
国策的にヘンリーを使わせたということなのだろうか。
仲介したのが、ジャーデン・マセソン商社であったことでも
イギリス側の打算的理由がうかがえる。



当時の大学の各学会で土木工学は、低位にあった。
技術は、徒弟制度の中で伝承されるもの。
ヘンリーも工場に勤め技術を習得しながらの修学。

そして、
工部大学の初代都検、実質学長として
土木学・電信学・機械学・造家学(建築)・化学・冶金学・鉱山学の7部門の学科を設ける。
後に造船学、紡績学を追加。

教授陣は、9部門を全員イギリス人。

ヘンリーは、学生及び産業界に大きく寄与した。
その後日本の、工業立国の礎となる。
工業立国の父と言われる所以なのだ。


その彼が帰国後の著書大日本に:Wikipediaより
これまでさんざん言い古されてきた、
『日本人は非常にモノマネが巧みだが、
独創性もなければ偉大なことを成し遂げる忍耐力もない』といった見方は、
余りにも時代遅れというものである。

又、日本人の勤勉さの所以を
江戸末期に次から次へと強国から受けた屈辱、劣等感と解している。

日本は、その後、列強国に追いつけ追い越せと次次と戦争に突入してゆく。
イギリスに大きな借金をしながら。
第2次世界大戦もそうであるように日本は、
欧米の錬金術の原材料であった。

ヘンリーの功績が逆視点では、日本の大局観の欠如を表わしているような気がする。

今回、安倍晋三が真珠湾に慰霊した事は評価する。
ただし、やたら耳あたりが良いだけのスピーチには、辟易する。

評価は、するものの70年経ってやっと腰を上げた感がする。
やむを得ずアメリカとの戦争に突入させられた苦い思いを沈めるために
70年の時間を必要としたのかもしれない。

資源のない国、加工輸出が日本の生きてゆく道と俺たちは、教えられた。
が、世界中が工業立国ならんとする現代では、
一次産業の再考、再興をしなければいけない。
これほどの海、山、田畑があり、
温暖な気候と水資源を持った国なのだから。

自然と向き合う。
原点回帰こそ、これからの日本のゆく道。


のおやじ、アゴハリ一族。世界に散らばり社会を斜めから見つめブツブツ文句を垂れ
世界の滅亡を防ぎつつ勝手気ままに生きている。
札幌市在住、顎が張っている、へそ曲がりで頑固。
物事を斜めから見る習性があり周囲に疎まれる。
趣味:ロードバイク/ クロス カントリースキー/ そして、コンサドーレ札幌のサポーター

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