2017年4月12日水曜日

1割る66

雪国にとって春は、喜びのはじける季節。
隠れていた地面には、蕗の薹やら福寿草が芽吹く。
花壇には、クロッカスの蕾が綻ぶ。






ベランダの
クロッカス






一年を通して一番愛される季節が訪れた。

昨日、心不全について書いていて思い出した。
神:ジンと言う苗字の二人の知人。
一人が国鉄の学校時代の同級生。
1年食って入学したが、そこは同級生で呼び捨て。
相手もさん付けで呼ばれたくはないだろう。

そのころの俺は、監視生活から抜け出た
脱走者の如きに自由と言う時間を大いに楽しんでいた。


祖父が40歳台で結核を患い療養生活から帰宅した後は、
仕事をせずにずっと家にいた。
俺が小学校の3年生頃の話。
躾けに厳しい祖父は、学校から帰ると必ず机に座らされる。
茶の間の文机に鎮座して教科書を開き、
復習と予習をしなければ外で遊べない。

やらされる勉強は、身に付かない。
とはいうものの多少の成果は上がる。
ゆえにそこそこは、出来た。
そのおかげで随分な競争率だったらしい
国鉄の学校に合格出来た。

その監視下から解放された若者は、勤勉という美徳をどこかに投げ捨てていた。
まぁ勉強しない。
遊んでばかり。
初めての試験から最後まで50人中49番が俺の定位置。
不思議でしようがなかった。
何にもしない。
授業中も寝てばかりの俺より下がいたことが。
それはそれでありがたい事でもあったのだけれど。

1年、2年で月1万5千円の奨学金。
1966年当時、16歳だった俺。
3年になると国鉄の準職員待遇で2万円が支給された。
全寮制で寮費が3000円。
他は全部小遣いで消費してしまう。
16歳からススキノで遊び親しんだ。
飛び級でススキノ大学に入学していたということ。

1968年の大学初任給平均が30600円なそう。
その頃の日本は、高度成長時代の真っただ中。
物価も驚異的に高騰。
それに合わせて給料も倍加していた時代だった。

坊主頭が学校の決まり。
幸い俺の髪の毛は、くせ毛で少々長くても寝てくれる。

ススキノへ出かけるときは、前髪を立てる。
そのころ流行りのアイビースタイルが出来上がる。

そうでない時は、バンドの練習。
6人のメンバー編成。
なんで俺がそこにいたのか?
これも不思議。
楽器がまるでできない。
なのでボーカル。

バンマスのリードギター、オチ
ドラムのトンビ
ギターのクロ
ギター、キンタ
ベースギター、ススム
ボーカル、マコト。

国鉄工場内の一角に教習所があった。
教習所の教室をかりて日々練習をしていた。
その隣の事務所から若い娘が用事を足しに出かけることがある。
その娘の名が薫ちゃん。

当時の流行り歌に花は遅かった
その娘を見かけると途端に曲が変わる。
薫ちゃん、ジヤァジヤァジヤァジヤァ。
遅くなってごめんね。
で始まる歌。

もう50年も前の話。
薫ちゃんは、フッフッ、などとかすかに流れ来る曲を聴いていたにだろうか?

馬鹿ですねぇ。
若いということは、馬鹿いから転じた。
無論嘘ですが。

ヤマハポピュラーミュージックコンテストなる大会があった。
1969年が第一回となっている。

俺たちのバンドは、その地方大会に出場した。
1968年のことになる。
知っている女子に応援に来てもらった。
その時の審査委員長が福田一郎さんか浜口庫之助さん。
どちらでもなかったかもしれない。
ただ、メジャーな人だったことだけは確か。
楽曲は、NoBody But Me
映画THE DEPARTEDの挿入歌。
その人に半音フラットしていると指摘された。
音を採る勉強などしたことがない俺。
そうですか、と恐れ入る。
しかもフラットすることは、プロに成れないと宣言された。
修正が出来ない癖なのだという。
あこがれていたプロの夢が崩れ去った瞬間だった。
が然程の熱量を持っていたわけではない。
まるで落ち込むことはなかった。
ただ、他のグループのひょっこりひょうたん島のロックが今でも耳に残っている。
斬新な編曲と言うかオリジナル性が眩しかった。

年を重ねるごとに時間が速く流れるように感じるのは
生きた年数の分母が多くなるから。

新生児の1年は、1年割る1で丸々の100%.
俺の1年は、割る66年で1.5%でしかない。
もう1%台の1年でも毎日楽しく暮らせる。
ありがたき。

ところでキンタ、今度の約束は、いつにしようか?




このおやじ、アゴハリ一族。世界に散らばり社会を斜めから見つめブツブツ文句を垂れ
世界の滅亡を防ぎつつ勝手気ままに生きている。
札幌市在住、顎が張っている、へそ曲がりで頑固。
物事を斜めから見る習性があり周囲に疎まれる。
趣味:ロードバイク/ クロス カントリースキー/ そして、コンサドーレ札幌のサポーター

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