Wikipediaでは、
屠殺(とさつ)ないし屠畜(とちく)とは、家畜等の動物を殺すことである。
「屠」は「ほふる」の意であるが、近年の日本では、「屠」の文字が
常用漢字ではないことから、と殺やと畜と表記されることも多い。
一般的には食肉や皮革等を得るためだが、
口蹄疫などの伝染病に感染した家畜を殺処分する場合にもこの語が使用される。
なお、この「屠殺」という言葉は、差別用語と見なされる場合がある。
しかし「屠畜」以外に日本語に特に該当する言い換え語が無く、
食肉加工業の中に曖昧化されて含まれる傾向が見られる。
類義語には〆る(しめる:一般的に鶏や魚に用いる表現)やおとす、
類義語には〆る(しめる:一般的に鶏や魚に用いる表現)やおとす、
または潰す(つぶす:一般的に鶏や牛や豚に用いる表現)がある。
友人と二人で。
二人とも初めての経験。
以外に冷静に仕事が出来た、と思っていたが。
そこには、強い緊張と衝撃があったことを後で知る。
胃が重たくなっていた。
ただ、罪悪感はなかった。
頂く という現実を文字通り肌で知った貴重な経験。
友人が、連れてきたのは、二羽。
ダンボール箱に詰めてきた。
まな板の鯉という。
間違いがある、
まな板ではなく 俎上そじょう の鯉 と書き、読むのが正解なそう。
鯉が俎上に載せると動かないというが真意は、わからない。
でも、大きな動物でも魚でも鳥でも目を覆うと動かなくなる。
段ボールをあけ小脇に抱えて右手で頭を覆う。
静かになる。
そうしてまず〆てしまう。
このときに烏骨鶏の体温が伝わってくる。
生きるためにいただく命が肌に伝わる。
小さな鼓動が腕に響く。
ありがたく敬虔けいけん な気持ちさえ覚えたことを今も忘れていない。
心の中ににやり、とした冷たい感情が
微塵も起きなかったことを安心もした。
世にそれが高じて殺人まで犯してしまう人間もいる。
少なくてもそうではなかった自分を確認できた。
卑しい心根だけは、持たない。
中学を卒業して札幌に出てくるときおやじに言われた。
誠、人に迷惑だけは掛けるな。
叩かれたことが一度もない。
それどころか叱られたこともない。
大好きだったおやじの言葉。
薄野大学へ入学希望を提出したのは、
札幌住まいになってから1年後の16歳。
高校卒業程度の奨学金を得ていたので金は、あったし
寮費も安く、使いたい放題で遊びたい放題。
奨学金支給前は、いつもピ~ぴ~していたくらい。
欲望を金で始末することは、一度もしていない。
大好きだったおやじの唯一の楽しみがマージャン。
休みの前の晩から徹夜を打つ。
そこだけは、俺も手は出さなかった。
きっと嵌まる自信があったので覚えようとせずに今まで来た。
人間心根いかんでどうとでも転がることが出来るということ。
今は、恋女房と晩酌をしてカラス、かぁ~とないて朝になったら
好きな御託を並べたブログをしたためて、
天気が良ければ自転車で走り
来年出発する日本一周に思いを馳せている。
このおやじ、アゴハリ一族。
世界の滅亡を防ぎつつ勝手気ままに生きている。札幌市在住、顎が張っている、へそ曲がりで頑固。
物事を斜めから見る習性があり周囲に疎まれる。
趣味:ロードバイク/ クロス カントリースキー/ そして、コンサドーレ札幌のサポーター