2019年11月29日金曜日

小説 Lugh ルー 21 終回

ボクシングで一番威力のあるパンチ。
カウンターのカウンター。
クロスカウンターと呼ぶ。

TV解説者「スプリントの態勢に入った時にギアを一枚残していました。
白石選手は、発射台になることを予想してあそこで二人を誘ったのでしょうか。
後ろを発射させたうえでMAXの噴射をしました。
まるで三段ロケットの最終ロケットのようです。

スプリント勝負を制するイメージは、持てていた。
が、自分がゴール間近で発射台にされると不利になる。
誘ってそれより早くカウンターを出させる。
そして叩く。
そのタイミングやスピードの加減など難しい課題は多いけれど
考え抜いた末クロスカウンターを狙うことにした。
レース初心者の僕に駆け引きなどできないだろうと高を括っているはず。

解説「白石選手の最初のスプリントは、この年代のトップクラスのレベルでした。
追う二人の選手は、それを利用して150m程前でスプリントの勝負を掛けました。
白石選手は、それを待っていたのです。」
司会「トラップですね。」
解説「あの時点でもう一段上のスプリントが出来る。
自力がないとあの走りはできません。
素晴らしい脚力でした。」

もう少しの距離を我慢されていたら僕のまくり返しは、成立していない。
二人は、ぎりぎりの線で勝負に出てくれた。














録画を見ると僕の顔は、酷い事になっていた。
開いた口の端から涎が流れている。
無酸素でもがき苦しんでいるはずが頬が上り、悦楽の目をしていた。
もがき苦しみながら微笑みを浮かべた顔。
阿呆な顔、格好悪う。
祖父が「ありぁ森進一だったな。」誰?
父「クロカンスキーの時は、俺も酷いことになっていたけどな。」
母「洟や涎がつららになって口の周りに垂れ下がっていたのよ。
そこまでして走りぬくユーが神々しく見えた。」
僕「それって選手のほとんどだよね、何でお父さんだけ神々しく見えた?」
母「言わずものがっていうことでしょ、野暮なこと言わないの。」
僕「はい、はい、ごちそうさまです。」

三人が横一列でゴールに飛び込む。
その瞬間マシンを前方に投げ出す。
紙一重でゴールテープを切ったのは僕。
上背に勝る僕が勝った。

TV司会者「ボクシングで言うクロスカウンター。
なんともエキサイティングでファンタスティックな展開を魅せてくれました。

悦びの爆発。
歓喜。
吠えながら、片腕を空高く突き上げた。
早坂先輩ともう一人の選手が僕の両の腕を掲げてくれた。
Lugh!のコールが響いていた。
僕の目線の先には、両親がいた。
南海さんがいた。
ゴリと戸田さんもいた。


その時のことが思い浮かぶ。
今は、あれから3年後の2015年7月5日。
ここは、ツール・ド・フランスグラン・デパール。
スタート地オランダのユトレヒト。
昨日2015年ツールドフランスの幕が上がった。
初日は、13.8Kmの個人タイムトライヤル。
優勝は、ローハン・デニス選手。
タイム14分56秒。
平均速度を55.446km/hの成績。
ツールド史上最速の記録。
当然スピード系の選手が上位を占める。
優勝を狙う各チームエースがそれに継ぐ。
エースは、総合的な力を持った選手が多い。
総合系の中ではタイムトライヤルに強い優勝候補スカイのフルームは、
1位にプラス50秒の39位。
僕は、プラス43秒で22位。
フルームの上にいる。
あのチビではない日本人、やるじぁない。
少し話題になっている。

イタリアでは、何度かワンディレースで優勝をした。
歴史あるクラシックレースでの優勝もある。
地元マスコミで〟日の出国から来た太陽の子Lugh 〟と紹介されている。
イタリアのレースでは、僕への応援が地元選手並みになっている。


そして今日同じユトレヒトから第2ステージ166kmロードレースがスタートした。
僕は、日本人だけで組んだチームの一員としてこの大会に出場している。

あの大会終了後に光榮で高校自転車競技部監督から
JCF日本自転車競技連盟の連絡を受けた。
ジュニアの育成
世界のトップを狙える日本人選手を育てたい。
10代の選手、サッカーならU-18のカテゴリーを底上げする。
ヨーロッパで強化を重ね選手層を強く厚くして行く。
そこに参加しないか?という誘い。
僕は、大いに迷う。
勿論両親に相談もした。
二人の意見は、僕の決定を受け容れると一致していた。

「ルーの気持ちは?」
「行きたい気持ちが勝っているかな。」
「留まりたい理由は?」
「現状でもいいんじぁないかなって。」
「野球は?」
「やっぱり肩がしっくりしない。
となると僕の求める球が投げられない。」
「投げられないなら他の競技で世界を狙おうとなる?」
「その気持ちが強い。」
「自転車競技はどうなの?」
「今度の誘いを受けたときに聞いたんだけど
日本の自転車競技の歴史は100年以上あるんだって。
トラックのスプリントでは、中野浩市選手が1977年から10連勝をしている。
だけど、メジャーなロードレース国際大会で日本人優勝者は、いない。」
そこを目指そう、と言われた。」

父「自転車は、ヨーロッパで発明されて
ヨーロッパ人の体形に合わせて進化してきた。
日本人の体形では、なかなかロードバイクの頂点を狙えなかったからなぁ。」
「光榮で高校のレースを見て僕には西洋人と互角で競える素質がある。
それは、体格、体力そして精神面でも。」
母「そうね、もう190cmを超えてるでしょう。
しかも日本人特有の胴長ではないもんね。」
「イタリアが拠点で向こうの高校へ編入することになる。」
「問題は、そこ?」
「実はね。」
「海外での生活を続けられる?」
僕は、大学進学をしたい。
まだぼんやりしているんだけれどスポーツに関連した研究をしたい。
それがイタリアの高校生活で基礎の学力を付けられるかどうか?」
「寂しいの?」

唐突に確信を突かれた。
「えっ?」
「家族から離れることが。」
「恥ずかしいけれどそれが一番の理由かも。」
「その感覚は、親にとってうれしいわ。」
「家を離れるのは、高校が終わってからと思っていた。
それが少し早まるだけの事なんだけど。
連盟への返事は、一週間後だから、もう少し考えてみる。」

僕は、小さい頃人見知りをした。
知らない人に出会うと親の後ろに隠れていた。
昔、おばあちゃんが言っていたことを思い出す。
親の愛情を十分に受けている子は、人見知りする。
僕は、きっとそれだな。
まだ精神的成長の過程にいるのだ。
まだもう少し家の中で温々ぬくぬくしていたい。

JCFの条件は、素晴らしい。
金銭面で親の負担がなくて済む。
兄貴たちに電話をしてみた。
長兄寛至ひろし「録画DVD見たよ、凄いまくりだったな。」
「Lughコールも凄かった。」次兄雅斗まさとの声が入ってきた。
携帯電話をスピーカーモードにしているようだ
「二人で話をしていたんだ、Lughは、プロ選手になるべきだって。」
「どうして?」
「強いだけでも十分にプロの資質がある。
でもその上に熱狂を呼べるのは最上のプロだと思う。
まして日本ではまだマイナーなロードバイクレースで
ロードバイクに携わっていない人まで巻き込んで
熱狂応援させるLughの魅力は、持って生まれた素質。」
「あのスプリントは、強烈なパフォーマンスだったぞ。」

「イタリアに行くことになるかも。」
「なに?どういうこと。」
JCFからの誘いのことを話す。
「羨ましい!!」
「どのくらい?」
「19歳まで。」
イタリアの高校は、14歳から5年制。
3年生に編入することになる。
「すると約3年かぁ。」
「いつから?」
「イタリアの高校の新学期がもう始まっているので用意が出来ればすぐにでも。」
「そうか、心のテイクオフなしか。」
「準備期間なしでは、精神的に不安定だろう。」
「本来は、中学生の時に選抜して高校1年生でイタリアの合宿入りになるんだけど
僕のレースを見て是非参加してほしいって言われて。」
「プロたちが認めたLughの能力かぁ。」
凄いな、例外の特待生だもんな。」

兄たちと話していて徐々に自分の考えが固まってきた。
行こう。

プロが認めてくれて僕を世界のステージに引き上げたいという。
望んでも得ることが出来ない世界がそこにある。

決心を両親に報告。
連盟に回答しパスポートを申請。
学校に届け出たり野球部や自転車競技部に挨拶したり。
あっと言う間にイタリアにいた。
合宿は、18歳以下の強化選手が各年3名づつで合計9人。
1年生は、一人欠員があったのだという。
僕が入って3人になった。

少し大きな一軒家が合宿所。
寮母さんがイタリア人のおばちゃん。
少し太った陽気なマリアさん
彼女は、日本語を知らない。
話すのは、イタリア語。
簡単なイタリア会話の本で自己紹介を事前学習した。

Mi chiamo Toru Shiraishi.
僕の名は、白石通蕗です。
Sono felice di conoscerti.
お会い出来てうれしいです。
Per favore, chiamami Lugh.
ルーと呼んでください。

il benvenuto.
ようこそ。
マリアがその太い腕で抱擁してくれた。

「あんたでかいね。」と言っていると傍にいた同級生が訳してくれた。
こうしてイタリアの生活が始まった。
ヨーロッパは、秋が新学期
イタリアも同じですでに新しい学期が始まっていた。
授業は、言葉が分からないのだからまるで理解できない。
そこは、合宿でイタリア語の勉強がある。
日本に3年間滞在したことがあるアンネッタが
最初の3ケ月を毎日1時間教えてくれた。
徐々に耳が馴れて会話もできるようになる。

バイクのコーチは、やはりイタリア人。
毎日のスケジュールは決まっている。
そこで手を抜いても何も言われない。
責任は、個々に有って他人が決めることではない。
選手を引っ張ってゆくのは、コーチの仕事ではない。
コーチは、支えになっても牽引しない。
とにかく褒めてくれる。
「なんとダイナミックで美しい走りなのだ!!
その独創的な爆発力は、世界が驚くだろう。」
などと真顔で言われ続けられる。

僕は、両親に褒められて育てられた
しかしイタリア人コーチは、それの三倍くらいの褒められようだ。
ああしろ、こうしろという指示されたトレーニングは、あまりない。
その分自分が考えなければ前に進めない。
精神的なトレーニングが自然にできてくる。
他に「集中しろ、エキサイトしろ、楽しめ」とも言われる。

そのコーチの下に日本人のアシスタントコーチがいる。
トレーニングや生活そしてレースなど選手の全般を補助してくれる。
毎日のトレーニング結果を記録してコーチに提出している。

レースは、それらの記録を元にコーチの目を通してチームが組まれる。
レースの特徴に合わせてエースとアシストが決められる。
褒めてばかりではない。
叱られることもある。
それは消極的な走りをした場合。
「人生は、チャレンジ。
レースもチャレンジ。
僕は、チャレンジする選手を尊敬する。」

ヨーロッパでトレーニングとレースを重ねるごとに確実に力が付いてきた。
自分の強さ、弱さをより鮮明に見出すことが出来た。
コーチは、僕にルーの長所をより伸ばせとアドバイスしてきた。
より強力に長所を伸ばすこで欠点をカバーすることができるとも言われる。
では、僕の長所は?
プロロードレーサーに必要な資質。
長距離を走りとおす体力と精神力。
当たり前の答えに行き着く。
イタリアでも僕は大きい方。
だが、僕サイズは当たり前に存在している。
そうなれば人と同じトレーニングでは、トップに上がれない。
中身の濃い練習に努めた。
「Lugh少し休め。」休養することも強く勧められた。

ロードレースの最高峰ツール・ド・フランスは、
合計3週間21ステージの長丁場になる。
その総走行距離は、3000kmを超える。
そして高低差も2000m以上になる。
その過酷なステージを総合で制した者が、
そしてチームがロードバイク界の頂点になる。
ツール・ドは、サッカーWカップ、オリンピックと並んで
スポーツの世界三大イベントと言われるくらい大きな大会。

その最高峰を目指した。
原石に過ぎない自分。
ダイヤモンドは、研磨して初めて多彩な光沢を放つ。
3年は、瞬く間に過ぎた。


ツール・ド初日、個人タイムトライヤルでは、1位と50位とで1分少々しかない。
タイムタライヤルでの成績はツールドの総合優勝にほぼ影響しない。
第2ステージのロードからが本当の闘いになる。

スタート前の集団を眺めると世界の有名選手が綺羅星に散らばっている。
チームの中で僕は、セカンドエース。
エースは、沖縄県出身の古城ふるしろ雪哉29歳。
3年前にツール・ドで完走した初めての日本人選手。
「Lughの大きな背中の後ろだと僕は、真空の中だ。
風の抵抗が全く感じない。
本気で総合上位入賞が狙える。」とエース。

そして第2ステージがスタートした。
空が青い。
そして高い。
どこまでも青く、どこまでも高い空。
200台のロードバイクが連なる。
タイヤの滑走音。
チェーンの回転音。
ラチェット音。
音は、塊となる。
車列は、音を残しうねり流れて行く。

お終い

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