2019年5月14日火曜日

小説 Lugh ルー 9

手術の縫合痕を鏡で見る。
息が止る。
呆然と見続けていた。

「ピッチャーを続けられるでしょうか?」
数日後の診察で聞いてみた。
「続けられるし、続けられない。」
との答え。
靭帯の損傷が重なっている。
切れた一部を接合したとしても
高いパフォーマンスが必要なアスリートにとって怪我前の肩に戻れるかどうか?
1年をかけてなんとか怪我前に近い状態には、戻るだろう。
趣味としてのプレイなら間違いなくできるようになる。
ということだった。

僕の肩靭帯損傷は、正確には腱板不全断絶だという。
腱板は、腕の骨の付け根の大きなゲンコツを首側からつなげている筋肉。
その繋げている末端の腕側一部損傷。
動かさずに安静させて徐々に治癒させる。
僕の場合は、不完全断絶の中でも軽度なので積極的に手術を勧められることはない。
僕は、靭帯の手術には、消極的な気持ちになっている。

その時の僕は、魂が抜けていたと後で聞かされた
精神という支柱の抜けた肉体。
どこを見つめているのか焦点の判らない目。
精気の感じられない受け答え。
存在感がない。
食事をしても味がしない。
ただ仕方なく咀嚼して飲み込む作業をしているだけ。

手術の4日後にゴリと戸田さんが来てくれた。
そこで野球部に大きな亀裂が走っていることを聞かされる。

















キラーS。
昼食を済ませて本を読んでいた。
小説、君たちはどう生きるかが終章に差し掛かったいる。
「せんぱ~い、チ~ス!」
「ウィ~ス!」
二人は、ぎこちない笑顔を貼り付け部屋に入ってきた。
「ウィ~ス!」
口角を少し上げた。
一つしかない来客用の丸椅子を戸田さんすすめる。
ゴリは、ベッドの縁に坐ってもらう。
「これ二人で出し合って買ってきました。」
ロイズチョコレートの包み。
「チョコレートの詰め合わせです。」
「ありがとう。」
「一緒に食べよう、冷蔵庫から好きな飲料を選んで。」

「どう?」
「寝返りが打てないくらい、ほぼ痛みはない
少ししびれがあるかな。」
「監督が部員全員に知らせてくれた。ポッキリ折れていたって、
固定手術をしたので回復は早いだろう。
でも靭帯の一部断絶があるのでどこまで戻せるかが課題だ、と言ってたけど。 それから部員にはすぐ退院するし入院中は、お見舞いをしないでそっとしておくように。」と言われたとも。

20cmくらい切ってプレートで骨を固定した。
若いから3ケ月くらい、遅くても半年くらいで骨が付くだろう。
付いたらプレートを抜く。」
「ということは、もう一度手術?」
「15分くらいで終わるらしいけど。
今は、14針で縫い合わせている。見る?」
「見たい。」
「俺はちょっと、」

パジャマの襟を下げて見せた。
縫合部分には、透明なフィルムが貼られている。
ガーゼだとせっかくの盛り上がってくる表皮が
ガーゼの取り換えの時にくっついて剥がれてしまう。
湿潤治療が主流になっているのだという。
透明なので異常も発見しやすく傷口の治りも速い。
出血が無くなった2日目からこのフィルムが貼られた。
異常がなければ抜糸までこのままで貼り置く。

戸田さんは、目を丸くしていた。
ゴリは、目を細めてこわごわ見入っている。
「野球ボールです~。」
「うわっ、おっかねぇ。フランケンシュタイン?」
生々しい傷口がそこにあるので禍々まがまがしい。
僕は、野球ボールでフランケンシュタインの怪物に変身しているようだ。

二人の反応を見ていて少しだけ楽しくなってきた。
でもゴリの話を聞いて骨折とは違う憂鬱が沸き上がる。

嵯峨先輩がミスリードされている。
嵯峨先輩の起こした事件だ。
嵯峨先輩が白石の肩を狙った。

戸田さんに聞いたことのあるキラーSは、嵯峨先輩のことだった。
エースの座を確保するために邪魔な白石を病院送りにした。
という噂が部員に広がっているという。
SNSでもキラーSの話題が拡散されているらしい。
士気が盛り下がっている。

チームに大きな影響を与えている。
有力なスリーパー候補がいなくなったことよりも深刻な状況。
部員同士の絆が切れている。
僕は、心を決めた。
ゴリに明言した。
「1週間で退院できる。
僕が責任をもってチームに説明する。
あれは、事故だったと。」

他に雑談をした。
また滝野の朝練をしようと約束して二人は帰って行った。
僕は、エレベーターまで送る。
二人は、アマレス京子ちゃんのお父さんがする
「気合いだ、気合いだ、気合いだ~!!」と抑えた声で音量を揃えてエールしてくれた。
僕は、右の腕に力こぶを作りそれに答えた。

その日両親が揃って見舞いに現れた。
「おやっ?」
「あれっ?」
二人が驚いている。
「?」僕は、疑問を顔にした。
「顔が変わっている。」
「そうか、魂が戻ったか。」
「その様ね、思ったより早かったわね。」

「僕は僕、何の変化もないよ。」
母、「鼻が曲がったとか、眉が無くなったとかとかじぁなくてね。」
僕、「心配が増えた。」
ゴリ達が来てくれて見舞ってくれたこと。
キラーS騒ぎが起きていることを話した。
父、「治療に専念すればいいという状況ではなくなったということか。」
母、「真実は?」
僕、「事故だったことに間違いは、ない。自分の中で詳しく見つめ直して
チームに説明するよ。」

君たちはどう生きるのかのコペル君にはなりたくない。
友達との約束を果さなかったコペル君。
約束は、契約だと思う。
約束を果たした時、そこに相互の深い信頼が生まれる。
僕が原因でチームが崩壊するのを見過ごせない。
真実を伝えたい。

父、「そうか、それがいい。」
母、「果たすべき責任が出来たってことね。」

父、「この本読んでみないか。」宮本輝の骸骨ビルの庭上下巻を渡された。
戦後の荒廃した大阪の街の、
とある焼け残ったビルに繰り広げられた人間ドラマだった。

帰還兵とその従弟が戦争孤児たちを養育する。
様々な人間模様の中で一人の孤児に裏切られる。
温かな精神の風が戦そよいでいる作品。
僕は、翌日までに一気に570頁を読んだ。

その中で里親の帰還兵に従弟が放った言葉があった。
「自分のことを考えての苦労やから苦労と感じるんやないのか?」
孤児達のことを一に考えろと言っている。
無償の愛ということ?
僕は、コペル君のことと同様にこれも違うと思った。
人は、自分のために生きるのだと思う。
他者への関わりは、自分のため。
自分が納得したいから。
少なくても僕は、そう。


僕たちの家は、死んだおばぁちゃんが建ててくれた。
父のお父さん、僕にとっておじいちゃんを僕は、知らない。
そしておばぁちゃんも知らない。
僕が生まれる前に亡くなっている。
その祖母と我が家の関係を母が教えてくれたことがある。

交通事故でおじぃちゃん無くなったのは、父が小学5年生の時
過積載トラックが操作ミスから操縦不能になる。
対向車線のおじいちゃんの車が巻き込まれてしまった。
車は、大破。
おじぃちゃんは、即死。
妻は、突然に夫をなくすことになる。

お前が望めばお父さんの保険金で大学まで行かせてあげられる。
生活は、お母さんの働きでやっていける。
お前は何も心配せずに自分のやりたい道を歩んで欲しい。」
葬式が終わって憔悴しきった母が息子にそう言い聞かせた。

それから父を育てるために身を粉にして働いてくれたのだという。
母と息子の二人だけの生活。
父の生まれ育った北広島市は、クロスカントリースキーが盛ん。
父は、学校の授業で競争をすると常にトップ。
クロカンスキーセットを揃えてもらう。
上手だから好きになり、好きだからなお強くなる。
中学になるとクロスカントリースキー選手になっていた。

高校は、地元の進学校に進学。
スキー部はないので陸上部に入る。
陸上部にはローラースキーがあった。
夏は、上下半身強化にローラースキートレーニング。
冬はクロカンスキーを取り入れている。
北海道で3本の指に数えられる高校距離スキー選手になる。

その後北大に進む。
スキー部入部で全国の上位にランクされるまでになる。

本州のクロスカントリースキー部を持つ企業から熱心に入社を勧められた。
ワールドカップの上位入賞をする選手を抱えている。
本人もその気になっていた。
その時、母親に乳がんが発見された。
仕事に追われて定期的な検査をしていなかったおばぁちゃん。
発見の時は、病状が相当進行した状態だったという。
手術をした。
おばぁちゃんは、順調に回復しているように見えた。
しかし、再発、転移の可能性が大きいと説明を受けていた父。
自分をささえ続けてくれた母。
父は、母親に寄り添いたいと
札幌市役所の試験を受けて就職したのだという。
北海道庁と言う選択肢もあったのだが転勤のないことが決め手だった。

同じ大学の同級生で陸上部だった母。
コンパで一緒になる機会が多くデートをする中になっていた二人。
将来は、母との結婚を考えてもいた
母親が元気なうちに結婚して
もう一度賑やかな家庭の中で生活してもらいたいと願った。
母にプロポーズした。
「結婚してください。」
結婚は、まだ先のことと思っていた母は、驚き迷った。

その時にこうも言った。
「僕は、家族を裏切らない。きっと幸せな家庭を築く。」
そして自分の母にもそんな家庭の中で生活させたい。
それが僕の矜持だ。」

その一言で結婚を決めた母。
実家のおじぃちゃんが浮気をしていた。
そのことでおばぁちゃんが苦労を重ねていたのだという。

大学卒業の翌年に二人は、結婚式を挙げる。
そして間もなく妊娠の知らせを祝う家族。
「家族が増えてくるとこの市営住宅では、手狭になるだろう。
家を建てよう。」
おばぁちゃんが、提案した。
「幸いオジィちゃんの保険金が、残っている。
これを頭金にしよう。」
翌年5月長男が誕生した。
そして夏に新築の家に移った家族。
おばあちゃんの辛抱は、事故の保険金を多く残していた。
おかげで家のローン返済は、市営住宅の家賃程度で済む。

言葉通り父は、家庭を大切にしてきた。
母は、義母との関係もとても円滑だったという。
今まで出来なかった手のかかる料理に挑戦するおあばちゃん。
料理教室に通ってもいた。
母と二人で工夫しながら作ったビーフシチューは、今は我が家の定番。
義理の母と言うより友達関係のようだったと振り返っていた母。
長兄が三歳の時次男誕生。
順調と思われていたおばぁちゃんの体調は、徐々に悪化していた。
がんの転移が発見された。
疲れやすくなってきた。
手術はせずに薬物治療。
転移は、多岐の臓器に魔手を延ばしていた。
そのころ母は、実家の事務仕事を手伝うようになっている。
昼間は、実家のおばぁちゃんが幼子の面倒をみる。

夜は、賑やかな家族の団らん。
穏やかで慎み深くて険の立つのを見せたことのないおばぁちゃんだったという。
「ああ、しあわせ。」が口癖でいつもつぶやいていたという。
ことがあるごとに「ありがとう。」と感謝を口にしたという。

最初の手術から6年目にがん転移再入院。
再入院から半年で帰らぬ人になった。
その時、まだ僕は生まれていない。

痛みを抑えるための麻薬投与で寝ている時間が多くなったおばあちゃん。
死期を悟ったのだろうある日家族が顔を揃えているときに死出の言葉を語り出した。
「美雪さんありがとう。」
二人の孫にもお礼をしてから父にこう言った。
「世界を諦めさせたことをすこし悔やんでいるの。
私のためにスキーをやめた譲さんごめんね。
でもあなたの作った小さな家族という世界は、とても輝いているわ
その中で生活できて私は、とても幸せだった、ありがとう」
おばぁちゃんの顔は、仏様かと思うほど穏やかで壮厳さを感じさせたという。
言い終わるとみんなの目の前で目を閉じた。
そのまま帰らぬ人となった。


父は、裏切らないことを矜持とすると言った。
その通りを貫いてくれている。
母は、そうのろけていた。
聞いていた僕は、少し気恥しくもあったけれど
そんな両親のもとで育てられていることを誇らしく思った。

僕もチームを守る。
僕は、僕の誇りのために。

ナナ・ムスクーリが聞きたくなった。
ナナのベストアルバムCDを母が持っている
高音が細く美しく澄み渡る。
しかし中域から低音部では、太く強い声になる。
女性の繊細さとパーソナルの強さを感じさせる。
おばぁちゃんがよく聞いていたCDを母も大好きになった。
今でも気が向くと聞いている母。
スマートフォンにダウンロードした。
屋上に上がってヘッドフォンで大きな音量で聞いた。
藻岩山を眺めながら事故の場面を詳しく思い出してみた。

そうだ跳んだ毬に協力してもらおう。

退院の日が決まる。
その日の野球部練習前に監督に報告したいと連絡を入れておく。
キラーS騒動を収めたい。
部員の前で話をさせてほしいと願い出た。
当日母が、軽自動車で学校まで送ってくれた。
「私は、近くの喫茶店で時間をつぶしているから終わったら連絡を入れて。」
と言いつつこっそりグラウンドの陰で事の成り行きを見ていたことを後で知る。

監督と二人で話をした。
野球を続けようとしても1年という時間が必要になる。
それまで休部させてほしい。
申し出は、了承された。
しっかりリハビリをして投手として戻ってきて欲しいと言われた。

そして練習前の野球部員全員の前で話をした。

「怪我をした白石が退院してきた。
みんなに話がしたいそうだ。聞いてくれ。」
監督が紹介してくれた。
僕は、前に進み出た。
最初の言葉が出ない。
大勢の前で話をすることにこれほど圧力があるとは。
それもチームの絆を結びなおすための話となれば
尚のことプレッシャーが大挙してこれでもかと押し寄せる。


「こんにちは~。」
えっ?何か違う。
みんなもあきれて失笑が起きる。
頭を掻く。
おかげで緊張が解けた。
「嵯峨先輩は、キラーSです。」
次の言葉が紡がれていた。
考えてもいなかった言葉。
チームがざわめいている。

10に続く

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